設立と多山恒次郎

一般財団法人 多山報恩会 設立当時の思い出

多山恒次郎多山恒次郎が財団法人「多山報恩会」の設立の申請をおこなったのは、昭和17年の事であります。 幸い翌年に許可をえて、昭和18年3月31日に本会は正式に発足しました。 時はまさに第二次世界大戦の最中でした。当時から人一倍信仰心の厚かった多山恒次郎は寄附行為の目的、事業にありますように国家の繁栄と安泰に貢献したいと思っており、又後を継ぐべく子孫もいなかったので、私財全部を提供して財団を設立することにより国家のため役立ちたいと決意しました。

その設立の陰には妻の故多山チヨ、そして広島市発展の恩人である故熊平源蔵氏、教育界の故中邑元氏、故中井俊雄氏、医師の故廣藤文造氏ほか各界の権威12名の支援もあり、計13名で発足しました。 多山恒次郎は明治17年6月19日広島市播磨屋町(現在の本通)の呉服屋に生まれ、東邦ゴム株式会社に席を置いたのが広島実業界入りの最初でした。その後現在の広島電鉄株式会社と広島ガス株式会社の前身である、広島瓦斯電軌株式会社の役員として就任したのは弱冠37歳でした。期を同じくして広島市革屋町(現在の本通)の総代として町内にために尽力しました。 話題として残っているのは大正11年9月12日町内の火事をきっかけに全国最初の「町設防火栓」を設置したことです。 また、昭和9年には広島護国神社(当時は旧市民球場の西側)に大きな石の鳥居を寄贈しています。この鳥居は高さ9.3メートル、柱間7メートル、御影石つくりで石は四国の伊予産で陸軍の団平船で運んだといわれています。(団平船は昔大きな船は岸壁に接岸できなかったので、人とか貨物等を沖合まで運ぶ中間的役割に使用していた船です)。 移転されて今では広島城の東側の入り口にその姿を見ることが出来ます。 さらに、同氏は全く陰得な人で「むらさき生」という匿名で、貧困な家庭やその他母子等へ同情金を送っていたことは現在でも一部の人のよく知るところです。 没後も遺体を広島赤十字病院に献体し、必要経費は自己負担で特殊技工をほどこした標本として医学研究に貢献されています。 「社会奉仕」の気持ちがこれを以てしてもよく分かるのであります。

以上の要職をへて昭和27年、年齢68歳で第一線を引退し、昭和37年78歳で亡くなりました。